「音」と「空間」

こんにちは。仲村真貴子です。

…このところ録音や録画に
試行錯誤していて
底無しの沼の様な感覚を
味わっております。笑

もー、キリがない。笑

納得のいく「録音」「録画」というものは
一回のコンサートよりも
ある面では消耗しますね。
達成感があまり感じられないのと、
「機械相手」みたいな、
義務感とか、無機質な感覚になる。

一方で、
「録音」や「録画」を
「作ったモノ」
と定義するなら、
「加工すること」から
また違った側面が見えるかもしれません。

つまり
「録音」「録画」をすることもそうだけど、
それらを「どう扱うのか」
「どう捉えるのか」
大事なのは、そこから。

例えば、
久々に自宅で録音して気付くのは
「あー、うち意外と響かないんだ…」
ってこと。

CD制作の過程で、
「音が」「場所が」「響きが」
なんて話も結構していたので
その辺りの感覚は
少々変化してきているのかも
しれません。

録音で捕らえられるのは
自身の音や楽器の音も
去ることながら
「空間の影響」にも
当然ながら左右されます。

…ということを、
久々に実感。

確かにマイクの質も
まー、あるんだろうなぁ。
そのうち凝り始めるかもしれないし、
そうでもないかもしれないけども。笑

いずれにせよ、
響かない場所で音を拾うのは
直接的すぎる部分がある。

自分の部屋に関して言えば、
そう言えば
「意図的に響かなくした」
という経緯があります。

人間も含めて、
「モノ」の大半は吸音材なので
モノが増えれば響かなくなるのは
当然なのですが…

引っ越した当時、
最初は「モノ」がなさすぎて
ちょっと鳴りすぎて疲れる、
というのが1つ。

もう1つは「訓練のため」。

かつて、
「音が鳴らない」
「音の立ち上がりが悪い」と
苦労した時期が長く、
それを克服するために
「わざと」残響を少なくした様な
経緯があります。

響かない場所でも
いかにちゃんと
いい音が鳴らせるか?
という様な。

条件が良くない場所で、
上手かったら、上手いよ!
っていう。

あるいは、ドイツやイタリア。

楽器の条件や
ホールや部屋の事情も
まずもって満足する条件に
遭遇しない。笑

ホールは、
風呂場の様に響くか、
残響が全くないか…の、
ほぼ二択。

ピアノも弦が切れていたり、
狂っていたり。

まぁ、そんなときに強いのが
ロシア人ですね。笑

おそらく彼らは
「悪条件の中でうまく弾くこと」に
長けている部分がある。
それは、恐らくテクニックもそうだけど、
耳であったり
「イメージ」であったりするのかな?と。

逆に、
「いい条件」で弾くと、
どうなるのかな?という
興味もありますね。
意外に、合わなかったりするかも。

まぁ、そんな訳で私も
気が付いたら場所の影響を
うけなくなった…という一方で、
あんまりこだわりが
なくなってしまった部分もある。

「こんなモンかな?」と
思ってしまう…というか。

「音」に関しても
試しに「加工」してみると…

理想の空間や響きを
ちょっとイメージすることは
できるんですよね。

練習の時はできていても
機械で「録音」することを
意識しすぎてしまうと、
どうしても
「機械」に向かって弾いてしまって
「空間」をイメージすることが
抜けてしまうことがある。

音を「開放する」イメージよりも
「集める」方向に行きすぎる。

その辺りは
「録音」から気付く感覚でも
ありますね。

そして、
「録音」や
「リモート」から伝わりにくい部分は
おそらくはそこ、だと思うんです。

「音」というのは
空間に放たれるモノだから。

その空間を感じられるか。
その空間をイメージできるか。

機械に、とって変わることのできないものは、
「感じること」であり、
「想像すること」。

その人が何を「感じて」、
その人が何を「想像」するのか。

それこそが、
人間の作り出すものの
本当の価値である様に
思いますね。

それでは、また!
仲村真貴子

追伸:
この記事は2020年9月末に書いたものだけど
公開してなかったみたいだから、そのまま公開。

実は昨日、録音・録画に関する講座を受けていて
似たような記事書こうと思ったら、出てきた。笑

私はいつも「空間」に放たれる「音」を
いつも意識していたいし、
生演奏の感じるべきは、そこかな、と。

それを、音を「出す側の人」、
つまりはリモートでレッスンする時なんかに
「感じて」もらうのは
最大の難点。
同じ空間にいないし、
お互いに聴いている音は違うし、
もしも仮に相手が例えば
「サイレント機能付きのヘッドホン」とかで
練習していたら、、、
「空間に音が響く感覚」って言うのは
どう体感してもらったらいいのかな…。
そこが、やっぱりホールで生演奏を
「体感」することなのかな。