「教える」っていうこと

こんにちは。仲村真貴子です。

「大学院を受ける後輩が
『レッスンして欲しい…』って言ってきて。
教えるって、不安があって…。」

久々に会った、
後輩の歌い手にこんな相談をされた。
彼女が受験生の頃から知っているけど
「後輩」っていう感覚はあまりなくて、
今ではすっかり独特のこだわりを持った
ステキな歌い手だと思う。

「教えること」をまだあまりしていない私が
「教える」ということを語るなんぞというのは
絵に描いた餅だと思うのだけど。

餅の絵描くよーーー!!!(笑)

…というのは、
ここ数年、特にこの1年…
いや、絶えずずっと?!
「教える」ってことは
ずっと頭にあったから。
そして、いろんな人に
聞いたり聞かれたりした。

「教えること」が不安なのは
すごくよくわかるつもり。
ましてや、受験生ならばなおのこと。
責任を感じると
何かを言うことが怖くなってしまう。
却って混乱させるかな…?とか。

「音楽家という職業は
いずれはどんなカタチであれ
『教える』ことになる。」

と言っていたのは、師匠Pistorius。

音楽家の成功のカタチとは
演奏すること…
と思っていた私には、
疑問符がついたまま消えなかった。

あるいは、Ramirez。
「自分の生きた経験が伝わって役に立つのは
喜ばしいこと。教えることは、好きだよ。」
彼は教える、というよりも
“Wegweiser”という言葉をよく使っていた。
“Weg”とは「道」の意味。
つまり、「道案内」「道標」のこと。

Jussowなんかは
「音楽家のいちばんの仕事は
いい生徒に出会うこと。」
と言っていた。

…彼らはいずれも、
優れた演奏家でもある。
「演奏すること」と「教えること」を
別個に考えていた私のアタマは
使っていないところを
使うような気分になってきた。

個人的には、
先生とあまりうまく行かなかった経験があり
それがトラウマティックなものとして
残っている。
「教えること」を、
もしかしたらネガティヴなものに
考えていた人たちだったのかも知れない。
仕事だから、とか、
仕方ないから…みたいに。

その話を友人にしたら。
「その経験は
自分が『教えること』で癒される。」
と言っていた。

うーん。
「教える人」のお言葉は
不思議な重みがある。

「教えること」をためらうもう1つの理由は
自分がスーパーでないといけない、と思うから。

なんでも弾けなきゃいけない、
なんでもできなきゃいけない!!って。

これに、Pistoriusは
「先生が世の全ての曲を弾けるなんて思うな。
そんなことはあり得ない。」
と言っていた。

今ならば、その発言をできることこそが
真実であり、強さだと思う。

あるいは、こんなお言葉も。
「指が太いと隣の鍵盤を触ってしまったり
黒鍵の間に入らないから、
器用な動きはできない。
悩みはそれぞれに違うもの。
テクニックは、工夫するもの。」
…さすが仙人、
霞食ってるだけあるなぁ…。

昨年、ある人にこんなことを訊かれた。

「自分の方法とか、経験を
『教えたい』って思ったことは、ないの…?」

えーと…私、何て答えたっけな…。
人にモノを言うなんて
人様に教えるなんて
恐れ多くて…とか言ったかな…。

「いいじゃん。本気でやれば。」

「うまくやらなきゃ、とか
間違ったこと言ったらどうしよう…
って思うよりも。
気付いたこととか
こうしたらもっと良くなりそう…
みたいなことを
一生懸命伝えてあげたら
いいんじゃないかな…。」

「…ちょっと勇気出た」って言葉は
うれしハズかし長津田の駅…だったけど。
私が言った言葉は
他でもない自分自身に言い聞かせているモノ。

「うまくやろうとしなくてもいいから。
一生懸命やったらいいと思うんだよね…」

精神論っていうよりも
座右の銘に近いかな。

「一生懸命」だなんて
カッコ悪いかも知れないけど。
「何か」は伝わる…と信じて。

…餅の絵はまぁまぁ
うまく描けた気がするから。
早く餅をつくか、食べるかしないと
暑いから腐っちゃうよね。(笑)

それでは、また!
仲村真貴子

追伸:
餅の絵を探してたら、
思ったよりもたくさんの画像が出てきて
ビックリした。(笑)
いちご大福もいいし、
麩饅頭もいいけど
季節柄おはぎ。
お盆の時に。
小豆は「魔除」だそうな。

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