久しぶりのピアノ

こんにちは。仲村真貴子です。

…久しぶりのピアノ。

お前の職業は、
一体何だ??と言う感じ。(笑)

ここしばらく、
ブログもメルマガもピアノも
思う存分にサボった。

ピアノはさておき、
ブログもメルマガも
ここまで長時間放置したことは
まだないし、
今この瞬間は
まだそこまでストイックでもない。

理由はトラブルとかではなく(笑)、
何となく気持ちが枯渇してしまったから。

コロナの騒ぎで
「価値観」とか「常識」とか言ったものが
覆るのは感じつつ。
それがあっても、なくても、
「なぜ音楽を?」
「なぜ文を書いて発信するの?」
「そこに価値はあるの??」
なんて思っていたけれど。

考えるのはいい機会。

でも、そう簡単に答えが出る訳でもなく
そうすると今度は答えが出ない「自分」に
嫌気が差してきて、
ドツボにハマってしまった。

…そもそも自分の存在に
「価値」はあるのかなぁ?
消えちゃっても、
変わらないかなぁ??
…とかね。(笑)

そんな訳で、
どこまでも自堕落な生活を。

昼夜逆転、
オペラは2、3本聞いたり聞かなかったり、
携帯ゲーム。

文を書くとか、
ピアノを弾くとか言った類のことは
やっぱり感情が動いた時に…
と、正直思う。

好きで、仕事ならば、
毎日弾きたくはないのか?
と思うけれど、
食欲がある時もあれば
食べたくない時もある訳で。
「欲求」と言うのは、
そんなモンだと思う。

一方で、そのうちまた弾くことを
信じている部分もあるだろうし、
無かったら終わりかな、と思う。

何となく本とか読みたくなって。
中村うさぎとか。
「他者という病」という本に加えて
ネットのコラムなんかも読んだ。

何のために生きるのか。
「死」とは何か。

実はこの本は、
2月に亡くなった伯父が持っていたもので
母が何となく持ってきた。

「ぴあのひこうかなぁー。」

みたいな感じで
久々にちょろちょろ弾いて、
そんな感じで呑みつつ
ちょっと「死生観」じみた話になった。

私は何かプログラムを決める時に
無意識のうちに
作曲家の後期の作品を選ぶことが多いらしい。
「興味」と言ったら軽いかもしれないけれど。
人が人生の最期に何を思うのか…?
それが知りたいのかどうかはピンと来ないが、
音楽で迫りたいのはもしかしたら
「人の人生」かもしれない。

高校の国語の先生だった伯父は
文学や将棋、音楽に惹かれつつも、
一方でギャンブルにハマるとか
繊細で不安定なところもある人だった。

最期に会ったのは祖母が骨折した時で
久々に結構長時間話したけれど。
ちょっと、持て余したところが
あったのかもしれない。
自分の、エネルギーみたいなものを。
今にして思えば
「感覚」を「知識」で
否定していたところが
あったのかもしれない。
だから、「知識」を欲したのかもしれない。

…そして、ここにこうやって書いたことは
私自身のことでもあるんだと思う。
私はギャンブルはやらないけれど、
音楽家なんて職業は
ギャンブル依存そのもだと思っている。(笑)

ピアニストだからって、
世に存在する全ての曲を
苦もなく弾ける訳ではない。
おそらく弾けない曲の方が多いだろうし、
昔やった曲だからって
今速攻で練習もなしに弾ける訳ではない。

…と、言えるようになったのは
ちょっとだけ自分の進歩。

けれど、
おぼろげに覚えている
昔コンクールで弾いた曲をちょろっと弾いたら
母は

「今の方がうまいね。」

と言ったりする。

そして、その言葉にちょっとホッとしたりする。

昔イマイチだったショパンのスケルツォの2番は
今もあんまり弾ける気がしないけど
他のショパンの曲だったら
結構イケそうな気もする。
「競う」ものから、
ちょっとだけ自由なものになりつつあるかもしれない。
気が乗らなかったら、
別に弾かなくてもいいし。(笑)

「どうして音楽をやるの?」

と聞かれたら。

「それを探すために弾きます。」

とか言いたいところだけど、
その逃げ口実もそろそろ通用しなくなってきた。

今、この瞬間だったら
「癒すこと」
と答えるかもしれない。

かつて苦労したバッハとか
下手くそだったショパンとか
今惹かれる曲を
お互いの思いで溢れる水で
洗い流すのは、
悪くない…と思わない??

それは体感として
「美化」とか「偽善」ではなく
傷が治る感覚に近い気がしている。

伯父が遺した本に触れるのが
ちょっと楽しみでもあり、
コロナ期間の自堕落な生活を
後で後悔するかもしれない。

それも、いいかもね。

それでは、また!
仲村真貴子