ぴあののはじめかた9

こんにちは。仲村真貴子です。

“Pedal ist die Seele von Flügel.”
「ペダルはピアノの魂である。」

…こう言ったのは、あのフランツ・リストだそうです。

レッスン中にPistoriusがこの言葉。
「誰が言ったか、知ってる?」
って訊くから、
「えー。知らないよ。Youじゃないの?」
と思っていたら、
部屋の肖像画を指して「あの人だよ」と。
レッスン室に、リストの肖像画があるんですね。笑
ネットで調べても出てこないので定かではないんですが、
確かこんな感じの言葉だったと思います。

…と、言う訳で。
今回のお題は「ペダル談義」。

「この曲のペダル、どうしたらいいのー??」

みたいな楽譜の写真がたまに届くと
結構丁寧に解説して答えています。笑
楽しい。

でも。

「ペダルはこうやって攻略せよ!!」

みたいな、
完パケマニュアルが存在するわけではないんです。

「ペダルはピアノの魂である。」
「濁るところとキレイなところの境目が一番美しい。」

Pistoriusの言葉は
さながらペダル道の経典のようですが。

みなさん。

悟りを開こう、とか
答えを欲しがる前に。

修行が必要なことを
どうかお忘れなく。笑

さて。

「ピアノがちょっと上手になった!」

と実感することの一つとして

この「ペダル」の存在があるらしい…

と言うことが
実地調査でわかってきました。

「ペダルが使えるようになると
ちょっと弾けるようになった感じで嬉しかった。
あと、手の交差するヤツが上手っぽくって
好きだった。」

…ママのお言葉ですね。

ちなみに
「手が交差するヤツ」って言うのは
左手と右手が反対になるような位置関係。
文字通り腕が「バッテン」のような形で
ピアノを弾くことですね。全部じゃないけど。笑

あぁ。
「ボヘミアン・ラプソディー」の
イントロのピアノ。
あれ、交差して弾いてますよね、
あれあれ。

私はあんまり得意じゃなくて
今は交差しないように指使いを変えてしまうことが多いですが…。
ブルクミュラーの最後から2番目位の曲で
確か「つばめ」って曲だったと思うんですが
要するに交差の練習、
それが「飛んでるツバメっぽい」って感じなんだろうけど
どうやら苦手だったらしく
「ゆっくり練習」とか書かれてました。
ツバメ、飛べないじゃん。笑

ペダルを使えることで
「上手になった気がする!」
って言うのは、
まずは
「音が延びない楽器」
「音が減衰していく楽器」
と思われているはずが
「あれー?ボワーんってなるじゃん。」
っていう、発見だと思うんですね。

もう一つは
「ペダルに届くようになった」と言う、
体の成長を実感する瞬間であること。

これは、大きいですね。

例えば
3歳とか5歳でピアノを弾くと
浅めに椅子に座っても
足が地面に着かない。
つまり、
ペダルに届かないんです。

今は「補助ペダル」と言って
足台にペダルが付いているものもありますが
私は「足台として」使っただけで
その「補助ペダル」を使ったことは
実際にはありません。

私は小さい頃から
割と体が大きい方ではあったので
足台はあまり使っていませんが、
ペダルをちゃんと使い始めたのは
小学校2年の時。
7〜8歳の時ですね。
よく覚えています。

小学校2年生の発表会で
モーツァルトの「ド〜ミ〜ソ〜シ〜ドレド〜」を
弾いているんですが、
小学校1年生の時に却下された理由の一つは
恐らく「ペダル」だったはずです。

実際のところは
それほど…ほとんど使わずに弾いたような
気もしますが…多少使ったかな。

ペダルの一番の思い出と言えば…

その、小学校2年生の時に
水戸芸術館のオーディションを受けまして。
オトナに混じって。
ワケもわからず。

家から近所だけども憧れの場所で弾けるよ!

と言う訳で大騒ぎだったんですが、

その時のオーディションで弾いたのが

カバレフスキーの「ソナチネ」。

2楽章、
「ペダル使えないなら
弾くのやめようね。」

と言う位の騒ぎでした。笑

弾くのやめようね、
って言うのは要するに
「オーディションやめようね」
と言うのと、ほぼ同義ですね。

後々考えれば、
2楽章弾いてなかったら
多分オーディション合格してないはず。

ただし、
この2楽章のペダル。
相当練習した覚えがあります。
鬼ざらい。

体が割と大きかった…
とはいえ、ギリギリではあるので
かなり「立ったような状態」に
近い感じで座っていたと思います。

ペダルの使い始めの頃は
「濁るのを注意して」
と言われることが割と多いと思うんですが…

これには理由があって
「ペダルで誤魔化すことを覚えてしまう」
と言う注意事項があります。
薬も使い方、ペダルも使い方です。

ペダル…と言うよりも
「響き」を考えてみると、
基本的に人間の耳と感覚は
「響きがある方が気持ちがいい」。

だから、
ペダルを使うと
急に上手になった感じがする。
音が延びて気持ちいいんです。

ただ…
それが「本当に」心地いいかどうか。
「濁っていて」汚いと感じるのかどうか。

これが「ペダル道」の入り口ですね。笑

1つ:和声の感覚を養う

ペダルがなぜ「濁るか?」と言えば
一つの鍵としては「和声」かと。

和声を感じること。

和声が「変化」するときに
ペダルを踏みかえると
変な濁りは避けられる可能性が高い。

2つ:実は「指」が大事

ペダルを使った時に「いい響き」を作るには
実は指が大事。

タッチが良くないのにペダルを使ってしまうと
「いい音じゃない」のが膨張・増幅されてしまう訳です。
悪く言うと、恥の上塗りみたいな。

指が届かない場所をペダルで補うのは
ペダルの重要な役割の1つですが
ここはペダルを踏むタイミングがポイント。

「糊付け」的役割で使う訳です。
アラビックヤマト。笑

ペダルって言うのは
音が鳴った「後」に踏むことが多い。
同時だとタイミングとしては速すぎて
濁ることが多い。
直前の音の響きを、
拾ってしまうからです。

あるいは、
延ばせる音は指で抑えたままにして
キープしてペダルにうまく入るようにすることも
よくやります。

ペダルを効果的に使うには
実は「指」でかなり色々な小技を使っている…
と言えるはずです。

3つ:「全部踏む」ことは、あまりない

コレ、意外に多かったのですが…

「ペダル、半分位の深さで踏んで。
下まで全部踏むと、多すぎる。」

と言うと。

「え??半分とか、あるんですか???」

って返ってくる。笑

ありますよ。笑

むしろ、
「全部踏む」ことの方が少ないです。

例のカバレフスキーの2楽章は
この「半分ペダル」と
(…まぁ、「ハーフペダル」とよく言う。)
そのペダルを踏むタイミングの習得に
ほとんどの練習時間を費やしていました。

ペダルは拍をとる感覚とは違うので
厳密には拍より「遅れる」訳で、
手と足の動きが分離する必要がある。

それが、
慣れないとかなり大変なので
「左手+ペダル」と言う組み合わせで
本当に飽きるほど練習しました。
もう一生、2度と弾きたくない!
って言うくらい。
あれはちょっと大変だった。

ペダルを「全部踏む」思い出といえば
例えばCDに収録した
ドビュッシーの「版画」の1曲目とか。
出だし、一番最初は
ウナ・コルダもダンパーも、
要するに両足のペダルをガッツリ全部踏んで
「イッテきまーす」
みたいな感じでした。笑
もっとも、「イッテきまーす」なのは
ペダルをガッツリ全部踏むことだけであって、
息遣いとか雰囲気は
あんまり「イッテきまーす」って
思ってないけど。笑

ちなみに
ペダル道の師匠、Pistoriusは
ペダルに関して
「4分の1踏み替え」
「足の親指の付け根で2ミリくらい」
とか、相当細かい指示をしていました。
指示というか、
こだわりというか、
発見と創造というか、
とにかくそれだけ「重要」ということです。

まとめ:結局は耳と「センス」

ペダル道に「正解」はありません。

結局のところ
手の都合も人によって違うし、
手の都合が違うと
届く届かない、とか
音の質とか
その人によって違うんですよ。

あの人と同じタイミングで踏んでも、
私はうまくいかない!
とかね。

もちろん、
曲によっても全然違う。

もっと言えば
弾く楽器や場所が違えば
変わってきます。

本番の時、
ホールによって
「ちょっと減らそう」
「多めじゃないとうまくいかない」
あるいは
「変えたいけど怖いからそのまま行こう」
みたいな判断を
瞬時に行って微調整しています。

要するに。

頼るべきは
自分の「耳」とセンス。

どんな音が欲しいのか。
どんな雰囲気が欲しいのか。
そうするには、
どうしたらいいのか。

そう言った試行錯誤、
つまりは「修行」が
道を拓く訳です。

ペダル道に「正解」はありません。
修行あるのみ!ですね。笑
でも、
修行すれば誰でも「ペダル道」を拓くことが
できると思います。

奥深き「ペダル道」へ、ようこそ。

大事なのは、
アナタ自身です。

それでは、また!
仲村真貴子