Goldberg完成記

こんにちは。仲村真貴子です。

ついにゴールドベルク変奏曲!!
全曲完成しました!!
よくがんばりました!!!

…と、ありがちな
それっぽい感想を書いておいて。笑

「作ること」

今回、常に意識していたことは
コレでした。

やり始める前は
「作ったものをどう届けるか?」
ということも、
うすらぼんやり頭に置いていたけれど
やってみると作る過程の中で
「自分がどんなことを感じているのか?」
そっちの方がよっぽど重要で面白かった。

何をやっているときに
どんなことを感じるのか。
この感覚になるのは
何をやっているときなのか。
この感情はどこから来るのか、
それを処理して、どう変化するのか…

考えていたのは、ほとんどそればっかりで
「バッハの真髄を…」
みたいなことは今回、
実はほぼ全く考えていません。笑
それはそれで、少々問題なのは承知で
動くこと作ることの中で
感情や変化を実験する意味合いが強かった。
そのために、
そこそこの量を作って続けるのに
ある意味バッハが都合がよかった、
という訳です。
そこそこ大変な方が、テンション上がるしね。

ただ、
「出来るだけ毎日…」
とか思うと、
その感情の変化とやらを
書き記す時間と体力は
ほぼ全くない。笑
これはある程度想像したことではあるけど
想像以上でした。
これも、やってみたからわかること。
何か口封じというか、
もっと強い言葉で言うならば
1人勝手に言論統制みたいな
コレはコレで結構キツかった。

弾いていると
何となく書きたくなってくるのね。

コレって、
弾いていると曲とか作曲家について
書くネタがあるから、
と言うよりも
自分の中の流れが良くなってくる感覚。
思考の流れか、
息の流れか、
自分の中に「源流」がある感じで
「源流がある!」
と思えることが
貴重な感覚なのかもしれない。

もうね、
たかだか3分足らずの動画1本作るのに
こんなに時間と労力がかかるのか…
とは、正直思いました。笑
練習→弾く→録音→再生→
編集→画像→動画編集→書き出す
→アップロード…
って、作業としては
まぁそりゃそうだろうねぇ…
って感じですが。
常にこれの無限ループ。
さて、今日はどれだっけ?みたいな。

よく言えば目標とやることが明白、
悪く言えばルーティーン化されすぎ、
時間に追われて事務的になる。

特に最初の4つが同じ日に出来ない。
1日の時間配分として
数字上では可能でも
体力とか集中力の意味でかなりキツイ。
それに、
いくらでも時間が欲しい部分。
…と、言う訳で、
今回は練習はかなり最低限…と言う感じ。
内容的には白状すると
初見のちょっと質が良いヤツ、ですからね。
掘り下げた感じでは、あんまりない。

最もこういう感情になったのも
動画20本ほど作ってからの話で、
最初の最初の頃っていうのは
「動画1本出来たら
赤飯炊いて祝いの宴を!!」
みたいな感じてした。笑

編集ソフトをムダに4つ位試して
それでもあくせくしていたので、

マイクが認識されて赤飯、
波形とメーターが見えたら赤飯、
録音できたら赤飯、
再生ができたら赤飯、
編集ができたら赤飯、
アップして公開したら赤飯!!

…みたいな、
もう何回赤飯炊いても足りないぜ!!
って感じでした。笑
内容とか、シラナイ。

「音」という
本来「目に見えないもの」が
波形とか数値とかいったもので
「目に見えるもの」になる感覚は
非常に面白くもありました。
波形や数値を動かすと、
こんな風に音が変わるんだな…という、
実験と体感。
それと、
ソフトを扱える嬉しさも相まって
「うわー、スゴい!イエーい!!」
みたいな感じで
割とエフェクトも多様していましたが
後になるにつれて
出来るだけエフェクトを少なくする方向で
調整していました。
同時に目に見えない「音」の、
波形や数値で表せない部分も
より一層興味が湧いてきた。
そんな訳で、
音質はもちろんバラバラ。
けれど、この
「録音を再生する時間」は
非常に貴重なものに感じました。
自分の演奏を客観視する、というよりも
自分の演奏を物質的に扱っていた
側面はあるけども。

先日、録音のやりとりをしたときに
「原音で送って」
と言われて
「あーはいはい。リバーブ外せばいいのね。」
みたいな感じでさっさとできた時は
随分慣れたなぁ、よかったなぁ、
と思いました。
今までだったら
「こんなにがんばったのに…」
とか思ったかもしれないけど、
コレも経験を積んだから
できるようになったこと。
物事の上達と継続のコツっていうのは
もうハードルを下げまくること…
かもしれない。笑
動いたから、OK!っていう。
毎回赤飯の宴を催す感情になればいい。笑
「作ること」の他に意識していたのは
「勝手に動いて、勝手に失敗しよう」
というのもありました。
自分が動けるための思考。
それと、
自分が意見を聞く人は
あらかじめ決めておいた方が
いいかもしれない。
世には人の数だけ「価値観」が
存在する訳だけど
「人にモノを習うことの価値」っていうのは
おそらくそこにある。

そんなこんなで
20本くらい作ったところで
ちょっと手が止まる瞬間がありました。

「手が止まるとき」とは
どんな時か。

満足したか、
飽きたか、
何かが上手く行っていないか。

要するに
「何かを変える必要がある」
という、1つのサインだと思う訳です。

だから実は、
かなり早い段階で満足していました。
「飽きた」というよりも
「満足」。
何かを変える必要があるようにも感じた。

そのタイミングで
何となく人から
意見をもらう流れになってきた…
という感じかな。

やったからこそ
次にやりたいこと、
やるべきことが出てきて…

作業の流れにひとしきり慣れたところで
やっぱりちょっと「深掘り」したく
なったのかもしれない。

ゴールドベルクと平均律を
行きつ戻りつした理由も若干そこにあって。
平均律を毎日だと時間がなさすぎるし、
ゴールドベルクだとちょっと
正体不明、所在が不明な感じがした。

以前言われたことがある
「変奏曲の難しさ」っていうのは
コレだなぁ、と何となく認識。

個人的には割と変奏曲は好きだけど
演奏する側の「人」が割と見えにくい。
形式的に構成力で勝負するのが
難しいというべきか
展開はするけど
発展はしない感じ。
ぶつかり合うものがなくて
並列的。
そうなると、
作曲家のアイデアと
技術的な側面にフォーカスされすぎる。
まぁ、アイデアを利用した
スタイルと技術の練習という側面は
確かにあって、
それはそれで面白くはある。
3の倍数で毎回カノンが出てくる、
しかも音程が開いていくのは
弾く側のオタク気質的知的欲求を満たすには
十分でした。
でも、それが最重要!!
という訳でもないよな…とも思う。

そんな訳で
一瞬迷ったけども
ひとまず完成させたかったので
最後まで走ることにしました。
最後の方に弾きたいところもあったし
何となく「年内」とか「冬」っていう
キーワードが自分の中にあった。

…音楽っていうのは、個人的なもの。

かの有名なグレン・グールドの
「ゴールドベルク変奏曲」は
小さい頃に毎晩寝る時の定番曲で
「寝るための曲」という逸話のある曲を
「寝るときに」聴いて育った訳です。
年末年始のスキーに出発する車の中とか、
小林道夫さんのチェンバロのリサイタルとか。
個人的な「家族の思い出」の方が
私にとっては大事かもしれません。
グレン・グールドに憧れて、とか
「ゴールドベルク」の素晴らしさ、
ではなくて。
その「時」を過ごした思い出、というのかな。
私の、個人的な思い出。時間。

そんなことがあってか
非常に小っ恥ずかしいですが
秘かに両親が楽しみにしていたようです。
だから「冬」に、
「年内」に、
ひとまず完成させたかった。
夢は今すぐ叶えるべきものとして。

おかげさまで
いい時間になりました。
1つの冬の、思い出に。

それでは、また!
仲村真貴子