ショパンに思うこと。

こんばんは。仲村真貴子です。

この位まで音楽を続けてくると、「好きな作曲家」「嫌いな作曲家」の他に、「得意な作曲家」「苦手な作曲家」がいるのではないか?と思う。
でも、この「得意・不得意」、一度疑ってみる価値があるかもしれない。

「苦手な作曲家は?」と訊かれたら。

私は迷わず「ショパン」と答えると思う。
次が、多分ラヴェルかな。

ショパンを弾けるのは、ピアニストの特権ですらあると思う。だから、ショパンが苦手だなんて、ピアニストとしては致命的とも言える。

…そう思ってきた。

私のショパンへの苦手意識は、結構根深い。

発表会で初めて弾いた「ネコのワルツ」はイマイチだったし、コンクールの課題だった「スケルツォの2番」とか、中学くらいで背伸びして弾いた「バラードの1番」は、私の「ショパンが弾けない人」というレッテルを明確なものにした。憧れの先輩のお姉さんは、華麗にショパンを弾く人で、いわゆるショパンコンクールを目指すような人だった。私はそうではないし、ああいう風には弾けないし…と、幼心に思ってきた。

そんな訳で、物心がついてからは、コンクールでも試験でも、「勝負どころ」でショパンを弾くことは、可能な限り避けてきた。エチュードで苦労したのは、ショパンが苦手たがら。「ショパンとか、いいよね。」なんて言うと、「え、ショパン好きだったの?嫌いだと思ってた!」とか、周りが少々ざわつくことも。(笑)好きじゃ悪いかよ、確かに上手くはないけども…と思いつつ。嫌いと言った覚えはないはずで…。

「ショパンが弾けない」を解決したい、というほどまでに強い思いはなかったけど、なんとなく周りが思うような「〇〇が弾ける人」「〇〇は弾けない人」「マキコって、こんな感じ!」みたいなものから脱したくて、留学したところはあったかもしれない。偶然に過ぎないけれど、ドイツでの初のKlassenabendはバラードの3番。その後も、舟歌とか幻想ポロネーズは数回弾いたし、幻想曲、ノクターン、マズルカ…とか、意外といろいろ弾いている。学生最後のレッスンは、「葬送」。それでも、勝負どころでは、タイミングが合わないときもあって弾かないことが多かった。

そもそも、ショパンは華麗で優雅で、軽やかなイメージの作曲家だろうか?

そういう面も、あるとは思う。
でも、そうであるなら、やっぱり私は「ショパンが弾けない人」のままなんだと思う。

ドイツで意外とショパンを弾いた理由は、日本ではできなかったから…というような逃げの側面もあるけど、多分Pistoriusの存在だと思う。結構ショパンには自信がある師匠だけど、彼のショパンは決して華麗で軽やか…でもない。言ってみれば、「ちょっと、私が弾けそうな感じのショパン」を弾く人だった。だから、弾けるかもしれないと思って、習いたかったのかもしれない。演奏会のアンコールで弾いたノクターンは、ポリーニも、ルービンシュタインも好きだけど、やっぱり師匠のあの演奏が一番好き…と秘かに思っている。

ドイツにいて、何となく感じていた、ショパンのある意味無骨な側面。
構造的に計算しつくされていることは、あの一見すると華麗な旋律に隠されて気が付かない。和声だって相当に凝っている。晩年の頃のポリフォニックな響きは、華麗で優雅なだけでは太刀打ちができない。

…なんとなくそんなことを思っていて。
ひょんなことから、3月末くらいからショパンを弾くことになり、そんなことが明確になってきた。「私が見る」ショパン像、とも言うべきか。優雅で華麗とか、スピードとか軽さがないのがコンプレックス…と思ってきた私だけど、話が少々違ってきた。

「あなたがショパンを弾く価値は、そういうところにあると思うんだよね。
だからショパン、弾いたらいいと思う。」

ショパンを弾くにあたって、お願い事が1つ。
あと小指が1cm長かったらなぁ…。1cmとは言わない、せめて3mmでも…。
今からでも遅くないので…。(笑)

それでは、また!
仲村真貴子

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