失われたデータを求めて…

こんにちは。仲村真貴子です。

紀伊半島、南紀白浜から那智の辺りを旅行して帰ってきました。

動いてるパンダを見たよ!とか
生まれて2週間ほどのコウテイペンギンの赤ちゃんとか
那智の滝、
不思議な形の岩とか
あぁ自然よ、生命よ!!!

…みたいな呑気なブログを書こうと思っていたのですが。
全くそんな場合じゃなくなりました。

最近、リモートでのレッスンをしていて
まだ試行錯誤の途中、とは言え
実り多き時間とヒントと共に
「一生懸命」「熱血レッスン」を標榜しつつあるのですが。

手元、左手アップで見えますかー?
みたいなやり取りでパソコンを動かしていたときに
繋いでいた外付けHDD(ハードディスクのこと)が
うっかり外れて、落としてしまったんです。

まーそんなこと、あるよね。
後で対処すればいいか…

と思っていたら。
そこからがさぁ大変!!

繋いでみたら、中のデータが読み込まれない。。。

雲行きが怪しいぞ…。

その時点で復元を慎重に試みれば良かった…
とも思うのですが、
焦りと共にあれこれ試すと
段々事態は深刻に。

Macの方は必見!!
Macには「first aid」という機能があり、
そこで上手く行けば修復、
データを救い出すことができます。
私はそのタイミングを逃した…というか
やり方を調べているうちに、手遅れに。

以前使っていたWindowsで試すも、
接続が認識はされるものの
中のデータは取り出すことができず。。。

もう、どんどんダメになっていくのがわかるし、
自分で息の根を止めてしまっている様な気分になるし
絶望なのか放心状態なのか何だこれ?状態。。。

ああぁ…。

データ関係のトラブルの歴史としては
教育実習の研究授業の前の日にパソコンが突如壊れて
うんともすんとも言わなくなり
提出用の指導案を失ったことがありました。
ドイツではビザの更新でトラブっていたバカ暑いときに
携帯のSDカードが不具合を起こし、
LINEやSkypeが使えないという不便が。
この時は自力で復旧させましたが、
当時の願いはただ1つ。
「お願い、パソコン壊れないで!!」でした。笑

そんな訳で、昨年Macを買った時は
最初から「ちゃんとしよう」と思って
パソコン「内部」ではなく
ほぼ全てを外付けに保存していたのです。
前のWindowsでも使えるし。

…それが、その「外付け」を壊す。
という、失態。
「ちゃんとしよう」と思ったのが
仇になってしまった、悲しみ。。。

さて、自力復旧は、むりぽ。

という訳で。
それでも自力修復(自分で開けて何とかするヤツ)と
修理に出すことを調べること14時間。
夕方だったのが朝の6時になりました。笑
調べまくった、っていうよりも
単なる放心状態タイムも、含む。
もう、ツライ。

調べていると、
「論理障害」と「物理障害」に大別される様で。
「論理障害」とは何らかのトラブルでデータが
読み込まれない状態。
上手くすれば、データの復旧の可能性は、高い。
自力でも、できるかも。
「物理障害」とは、文字通り物理的な障害で
落とした、とか、水かけた、とか、そういうの。

何が違うか?と言えば、
ズバリ修理代金。

私の症状だと「物理障害」。
しかも、重度に相当するはず。
お値段は20万とか70万とか、
そんな額が出てくる。
しかも、完全に全部データが残ってる、
とは限らない。
あるいは、抜き取られてしまうかも知れない。

え。。。。。。
どうしよう。。。

オランダに送るヤツの修理がいい!!
と読んだら、
えーと、DHL?EMS?何で送る??
と妄想したり、
でも今日は土曜日、持ち込んで動くのも
時間がかかるしどうしよう。
っていうか、値段すごいなぁ…
の、無限ループ。

ここで一言。
「情報」や「データ」というのは
タダではない!!
ということを、実感。

失ったデータに20万とか70万の価値があるならば
迷わず修理に。。。
という気さえもします。
そういうものも、あるでしょう。
「データ」や「情報」というのは
時間とお金と労力がかかっているもの。
二度と手に入らないもの。
だから、是が非でも取り戻したい…とか思ってしまう。

自分の書いたものが愛おしいとか
ああ我が人生の幸せな時よ!!!
失われた悲しみ!!!
…とかいう感じでは、ないです。
エウリディーチェを失って…
じゃなかった、
データを失って。
どうすればいいのだろう???
(…データと共に壊れる私。)

実際のところ、
本気で消えたら一番ヤバイ、
まじショック死。。。
と思ったのは、
昨年のリサイタルの「ビデオ」でした。
HDDが壊れた、と思った瞬間に
「ヤバイ」と思ったのがコレ。
顔面蒼白すぎて、夕飯の味が全くしない。笑

…さて、少し冷静になって考えると
「何のデータ」を失ったのか。
本当に残っていないのか。

リサイタルの動画は、
編集ソフトの中に
編集したデータとして残っていて、
無事でした。
ひとまず、安堵。

ドイツでの録音諸々は、
前のWindowsにそのまま残っている。

自分で聴くために入れていた
SMAPと宇多田ヒカルとフィガロの結婚は
手元にCDがある。
前のパソコンにも、残っている。

ヤバイ、プロフィール写真!!
っと思ったら、
なぜかこれはパソコン内部に残っていた。
メールに貼り付けたものから
回収することもできる。

…と、いう訳で。
意外に大事なものは
「残っている」。

本当に消えてしまったものは
私が割と直近で書いた資料たちです。
レポート。
メルマガの下書き。

例えば、
ダウンロード可能にしてある
昨年のリサイタルのプログラムノートとか
ショパンについて書いた書籍は
手元のデータとしては消失してしまいました。
ついでに、チラシも。

ただ、これらは「ダウンロード可能」。
だから、復元可能。

似た様な形にしたかった
手の小さい人に向けたレポートとか、
あるいは自信がない人に向けたアドバイス
みたいなレポートは
全て消失しました。
私の自信も消失、という、
笑えない事態に。

そんな訳で書籍風レポート4つくらいと、
あとメルマガの下書き2セットくらいは
完全に失いました。

実は「残ったデータ」には
ある「共通点」があります。

「大事だから、残った」
と、言えなくもないけど
ちょっと違う。

消えたデータは、
「なぜ消えたか?」と言えば、
「未公開」だったから。
全て、「私」以外の人が
目にしたことが、ないものたちです。

残ったデータは
私以外の「誰か」とのやり取りがあったり、
何かカタチを変えていたり、
パソコン同士を移動していたり、
流れや動き、変化があるもの。
だから、残った。

これに気付いた時は
少々身震いしました。

世に言う「アウトプットの必要性」とは
「残すこと」である、と。

人目に触れていないものは
「ないのと同じ」
と言うことです。

「自信」が持てなかった私が
やっとちょっと自信を持てた!
って言う話は、
公開されていないし、
データを取り出すことができなければ
現時点では「ないのと同じ」。
人目に触れることは、ありません。

「小さい手のレポート」は
実は途中まで人に送った形跡があり、
完成形ではないものの
完全には失っていない。
それは、数人であっても
「人目に触れたから」です。

あるいは、
レッスンやセッションで
人にモノを伝えること。
時間を共にすること。
私の持つ「データ」を、
私だけが持つ「データ」を
あなたも持っていることになる。
だから、
私が失うことは、ない。

「書き遺すということ」

「自分が生きた証を遺したい」
というほどまでの、
大それた話をする予定ではなく
そこまで強い意志があるのか?は疑問。
あるいは「目立ちたい」という意味では
もちろんないけれど。

生きることとは何かを「遺す」こと。
「痕跡」を遺すこと。
さもないと、
ないのと同じ。

…ないものは、自分で作ればいいじゃんねぇ。

というのが、最近のモットーなので
書いたものがなくなっちゃったなら
また作ればいいじゃん!
って、ギリギリ言い聞かせてる。
失ったデータへの未練と共に。笑

…ひとまずデータの整理と保存を進めて
また書いたり作ったりすると思います。

ここまで読んでくださった、アナタ様。
データ管理には
ほんとーーーーーに
気を付けてくださいね!!!
本当に。心から。
Ganz herzlich.

それでは、また!
仲村真貴子

追伸:
そういや今日、誕生日だった。
なんか色々あるなぁ。

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