「自分の言葉」を求めて

こんにちは。仲村真貴子です。

「音楽から『言葉』が聞こえてくる気がして。
よかったよ。
髪の毛振り乱して…みたいな演奏とは
違ってた。」

…zoomのお試しと称して喋った
伯母(=父の妹)夫婦、もとい伯父の言葉が
嬉しかった。

1年ぶりくらいかなー?
割と近い親戚からは
自分のルーツも探れる気がして
少々興味深い。

最近のテーマは、
「褒め言葉は額面通りに受け取ること。」笑

今までならば
「いえいえ〜、そんなことないですよ〜
まだまだですぅ〜」
とか言ってたと思うけど。

その件でビールの泡が消えるほど
説教された意味が、今ならばちょっとわかる。

まぁ、「お世辞」もわかるけどね。
過度な謙遜は、
お世辞や嫉妬への反発だったかのも知れない。

もっとも「髪の毛振り乱す」のは、
無理なのよ。笑
そういうのが、似合う人も、いる。
でも、そこでもなくて。

私、弾くときは
自分の肌に髪が触るとか、
自分で自分の髪が見えるのが
ものすごく気になるのです。
だから、
前髪は「流す」のではなく
「上げる」し、
ダウンスタイルで弾くことは
この先もない、と思う。

だから、乱れない。笑
引っ張られているくらいの方が
気合が入るのは、
孫悟空の輪っかみたいなモンかな。

CDや演奏の感想って
本当に「人それぞれ」なんです。

私は、コンクールとか試験の講評は
「意図的に」聴かない様にしていた
時期がありました。

「人それぞれ」だから。

混乱しちゃうんですよ、自分が。

オマケに、そうやって言うと
「自分の意見がないから…」
と言われて、結果よりも落ち込むことが
多かった。

だから、どーせわかんないから、
聴かない。
ダンマリ作戦でした。

今にして思えば、
結果を残すためには
「意見が割れては、いけない」
と思いすぎていて、
「違う意見」に対処ができなかった。

裏を返せば
実は「他人の意見に振り回されたくない」という、
矛盾を言葉に出来なかった気がする。

頂いた感想が「嬉しい」と感じるのは
それがその人の
嘘偽りのない言葉だと感じるとき。

例えば
高校時代の友人は
「きーちゃん(=私の高校位までのあだ名)は
ドビュッシーとフランス物、イイよね。」と。

驚くべきは、
彼女は高校の時も、同じ意見だったこと。
一方で、当時の先生たちが
「マキコがフランス物を弾くなんて、
間違ってる」とまで言っていたのに。
その、彼女のブレない感覚が、
好きだったりする。

ある方は、
「幻想ポロネーズ」って。

あー、よかった!!
私もショパン弾いてイイのね、
弾いてよかったよ!!!

自称ピアニストであるのに
こうやって「文」を書こうとすることの
真意とは、
おそらくここにあると思う。
続いてる、ってことは、
多分そんなに嫌いじゃなさそうだとして。

「自分の『言葉』を求めること」

日本語が通じればイイ、とか
もちろんそういう意味ではない。

難しい言葉の羅列でもなく。

自分自身の「言葉」で書くこと。
伝えること。
嘘偽りのない世界に迫ること。

音楽と同じく。

その意味で、
ドビュッシーもショパンも
後世に名を残す様な音楽家は
孤高の天才だった、というよりも。

それぞれに、
自分の「言葉」を持った人。

だから、
天才の作品を汚さぬ様に…
と思うよりも、
私が言いたいのは
「彼らも同じ、人間じゃん」
ってことかも知れない。

彼らも人付き合いとか
悩んだりするし、
健康は大事だし。

手を動かしてみて
字を書いてみて
内側にある「何か」を
外に出してみると。

やっとそこから
「嘘のない世界」に
迫れるっていう、

…なんか、そんな感じな気がする。

嘘のない言葉は伝わるし、
私の音楽が「嘘のない言葉」だったから
伝わったのだ、としたら。

それは、とっても嬉しい。

それでは、また!
仲村真貴子