11月22日 リサイタルに寄せて 〜その7 グランドピアノの大きさ〜

こんばんは。仲村真貴子です。

「大きなグランドピアノを弾くことのへの憧れ」は、いつの間にか少々忘れたような気がする。

小さい頃は、「グランドピアノを弾くこと」が、夢だったり、憧れだったりしたと思う。自分よりも大きなものに憧れて、早く大きくなりたかったのかもしれない。

でも、いつの間にかあまりそう思わなくなった。
自分が大きくなったからか、慣れてしまったのか、あるいは大きなものへの「憧れ」が、「恐れ」に変わってしまったか…。

今回のリサイタルの場所選びの特徴や「結果」として、

「ピアノがフルコンではないこと」

があげられる。

他に迷った場所は、ホールの大きさ自体にそれほどの差はないものの、
いずれも「フルコン」だった。

「フルコン」というのは「フルコンサートグランドピアノ」。
要するに、大ホールに適した、もっとも大きなサイズのグランドピアノのこと。

…それが、「サロン」のような比較的小さな場所に収められているのが、窮屈に思えた。「ダンボ」が、空を飛ぶ前に窮屈に見えたのと同じ感じかもしれない。(笑)

あるいは、「聴く側」としての立場からしたら、どうだろう?
私的な空間で、「大きな音」を聞かされ続けたら、
私的な空間で、「大きなピアノ」が威圧的なものに思えたら。
ちょっと疲れてしまったり、もっと言えば嫌になったりはしないか…。

念のためにいうと、「自分は音がデカいので、フルコンはいりません!」という意味ではありません。(笑)
それよりも、もっと内面的で繊細な話。
私的な空間ならば、それに似つかわしいようなピアノ、
必要以上に、自分がコントロールしなくていいような場所をイメージしたのだと思う。

もしも、この広さの場所で「フルコン」を相手にするようなことになったら、
うるさすぎないように気を配るかもしれない。
それは、まだ「こんなこと言って大丈夫ですか??」と、自分をへり下るようなクセのある今の自分には、あまり好ましい場所とは思えない。

無意識のうちに私は、
自分を素直に「スッと」出せて、
それを「スッと」受け取ってもらえるような場所を求めているのではないだろうか。

それは、異業種の人たちがポジティヴな意味で交流を続けた「サロン」という場所に、つながるイメージがある気がしている。

もう1つ付け加えるならば、「ピアノ」という楽器は、今でこそ大向こうを唸らせるような「ハイスペック」で「ハイテク」で「巨大」なマシーンへと成長したが、「サロン」が流行したような時代には、まだまだ発展途上。「サロン」のような空間でしか、音が鳴らないような楽器だった…という側面もある。

「ピアノ」の進化の歴史と、
「文化的なもの」の流れと、
人よりも時間がかかってここまで来た「私」と…。

同じ場所、同じ空間で「何か」を共有することができたら、幸せに思う。

それでは、また!

仲村真貴子
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